2015年 04月 20日
煙か土かウェブ棋跡 |
I崎です。更新が遅れたことと、昨年度の追いコンに行けなかったことをまずはお詫びします。当日僕は実家で両親に怒られていました。N村さんにはその数日前にお会いでき、渋いバーで色々と驚愕しつつ(つくづく偉大な先輩であったと思い知らされました)お祝い申し上げたのですが、改めまして皆さんご卒業おめでとうございます。僕については……すでに命在朝夕です。
さて今回は、遥か昔にS山君等と練っていたミステリー、S部連続殺人事件を数年越しで作っていたのですが、ここに載せるものではないなと脱稿してから気づいたので、いつも通り本の話でお茶を濁そうと思います。馬鹿馬鹿しくも無駄に力作なので捨てるのは惜しいため、読んでやるぞという方がおられれば喜んで個人的にお渡しします。内容は、千葉が水没してクローズドサークルになったとある部室棟で謎の殺人犯を追う部員たちの物語です。本当に馬鹿馬鹿しい。
自分で文章を書く度思うには……というわけでもないのですが、作家の偉大さをこういうとき思い知ります。気づけば読み手を飲み込んでいるような文章はどのようにして生まれるのか。どういう仕組みで出来ているのか。最近聞いた説によると、それは音楽の仕業だそうです。曰く、名文は間合いを測り、呼吸をし、そして打てば響く。すなわち名文とは音楽である。何の言い逃れだって感じですが、何となくわかるような気もします。これが正しいなら、我々が名文を読むとき頭の中には音楽が流れているわけです。実にロマンがありますね。僕のこの文章は目が滑るから、言わば不協和音というところでしょうか。
とはいえまあ、文芸の究極を見んとするならともかく、普通に娯楽として読む分には名文より内容の方が重要でしょう。少なくとも、好きな作品を他人に紹介するとき大切なのは文章より物語です。「こんな個性的なキャラがこういう目に会ってそこで何とこんな展開が」みたいな説明を聞けば食指も動きますが、「情景と心情の相克する描写が止揚してアナクロニズムがカリカチュアライズで(適当です)」というような説明されたら伸びるのは親指で向きは下でしょう。
しかし名文とは文芸にのみ息づくにあらず。むしろ娯楽だからこそ文章は重要なのです。
人から内容を紹介されて読んでも合わない場合もあるものです。去年一度部室に来た天パ京大生の彼は、高校生のころリアルな鬼ごっこをする小説をぐっと耐えて頑張って読んでようやっと辿り着いたオチを目にするやいなや投げ捨てた悲しい過去を持っています。大ベストセラーの小説を投げ捨てる者もいるのです。結局、最後まで読んでみないことには面白さの判断はつきません。しかし本屋の本は無限であり、我々の時間は有限である。
ならば、限りある己の寿命を費やすに値する作品を、数ある本の中から選ぶには、やはり「文章が合うかどうか」が重要になってくるのではないでしょうか。適当に選んだ本の冒頭を読んでみて、「この人の語り口は軽妙で面白い。ずっと読んでいられる」と思うものを選ぶ。「自分の中の波長に合う小説」を読む。それこそつまり、「自分の中の音楽に合う小説」ということに繋がるのではないかと僕は思うのです。ロマンがあっていい感じです。
最近は舞城王太郎の本が好きなのですが(熊の場所とかソマリアの話が良いです)、ドライブ感とか疾走感等と表現されるあの文体こそまさに音楽ではないでしょうか。……ビルを爆破する音とかかもしれませんが。行を追う目を急かすような文章は爽快でとてもかっこいいです。ヒーイズリアリーサムシング、ベリートゥルーリーエレガント!
一言で済む話を無闇に引き延ばしてこのあたりで、次はA吉にお願いします。それでは。
さて今回は、遥か昔にS山君等と練っていたミステリー、S部連続殺人事件を数年越しで作っていたのですが、ここに載せるものではないなと脱稿してから気づいたので、いつも通り本の話でお茶を濁そうと思います。馬鹿馬鹿しくも無駄に力作なので捨てるのは惜しいため、読んでやるぞという方がおられれば喜んで個人的にお渡しします。内容は、千葉が水没してクローズドサークルになったとある部室棟で謎の殺人犯を追う部員たちの物語です。本当に馬鹿馬鹿しい。
自分で文章を書く度思うには……というわけでもないのですが、作家の偉大さをこういうとき思い知ります。気づけば読み手を飲み込んでいるような文章はどのようにして生まれるのか。どういう仕組みで出来ているのか。最近聞いた説によると、それは音楽の仕業だそうです。曰く、名文は間合いを測り、呼吸をし、そして打てば響く。すなわち名文とは音楽である。何の言い逃れだって感じですが、何となくわかるような気もします。これが正しいなら、我々が名文を読むとき頭の中には音楽が流れているわけです。実にロマンがありますね。僕のこの文章は目が滑るから、言わば不協和音というところでしょうか。
とはいえまあ、文芸の究極を見んとするならともかく、普通に娯楽として読む分には名文より内容の方が重要でしょう。少なくとも、好きな作品を他人に紹介するとき大切なのは文章より物語です。「こんな個性的なキャラがこういう目に会ってそこで何とこんな展開が」みたいな説明を聞けば食指も動きますが、「情景と心情の相克する描写が止揚してアナクロニズムがカリカチュアライズで(適当です)」というような説明されたら伸びるのは親指で向きは下でしょう。
しかし名文とは文芸にのみ息づくにあらず。むしろ娯楽だからこそ文章は重要なのです。
人から内容を紹介されて読んでも合わない場合もあるものです。去年一度部室に来た天パ京大生の彼は、高校生のころリアルな鬼ごっこをする小説をぐっと耐えて頑張って読んでようやっと辿り着いたオチを目にするやいなや投げ捨てた悲しい過去を持っています。大ベストセラーの小説を投げ捨てる者もいるのです。結局、最後まで読んでみないことには面白さの判断はつきません。しかし本屋の本は無限であり、我々の時間は有限である。
ならば、限りある己の寿命を費やすに値する作品を、数ある本の中から選ぶには、やはり「文章が合うかどうか」が重要になってくるのではないでしょうか。適当に選んだ本の冒頭を読んでみて、「この人の語り口は軽妙で面白い。ずっと読んでいられる」と思うものを選ぶ。「自分の中の波長に合う小説」を読む。それこそつまり、「自分の中の音楽に合う小説」ということに繋がるのではないかと僕は思うのです。ロマンがあっていい感じです。
最近は舞城王太郎の本が好きなのですが(熊の場所とかソマリアの話が良いです)、ドライブ感とか疾走感等と表現されるあの文体こそまさに音楽ではないでしょうか。……ビルを爆破する音とかかもしれませんが。行を追う目を急かすような文章は爽快でとてもかっこいいです。ヒーイズリアリーサムシング、ベリートゥルーリーエレガント!
一言で済む話を無闇に引き延ばしてこのあたりで、次はA吉にお願いします。それでは。
by chiba_univ_shogi
| 2015-04-20 17:54