2012年 06月 09日
未知との遭遇 |
気づいたら入学してから3年経ち4年生になっていた…。研究室に配属され色々と仕事が増えたので部室に行く機会も減ったが、余裕があるときは顔を出そうかとは思っている。
さて、研究室に入ってから私は英語の素養というのが実は本当に必要だったという事を今更ながら痛感した。というのは、読まねばならない学術論文がほぼすべて英語であるのは勿論だが、それに加え日本語が喋られない外国人と話さねばならない状況も出てきたからだ。
やはりその必要性は実際問題として突きあたらなければ案外分からないものである。私の中学時代には、なんで日本人の自分が英語なんぞを勉強しなければならないんだろうと思い成績も低かったものだが、当時の自分にはまさか10年後に外国人と英語で話すことになるなど夢にも思わなかった。つい1年前でも思わなかった。理系の学生であればある程度の覚悟はしておくに越したことはないだろう。
自分の体感では単にコミュニケーションを取るだけなら、多少の文法の間違いは許されるし発音は日本人の口の動きでもそれっぽく聞こえればいいようだ。ここが日本だからかもしれないが。今までやってきた英語の勉強というのはそれほど役に立ってはくれなかった。というのは、自分の英語のインスピレーションは英文という視覚的に捉えられる形でしか大して働いてくれないからである。今までそういう勉強しかしてこなかったから当然ではある。
その外人は何かを言った。その時の私に現前としてあるのは,無論文章ではない,彼の情念を込めた言葉の音と彼の表情だけだ。彼が一体何を言っているのか、それは分からない。だが現在の情況と彼の表情から漠然とではあるにせよ何が言いたいのかは分かった。何か反応しなければ。しかし込み上げた感情に適当な言葉は容易には出てきてはくれない。それに相手をそこまで待たせるわけには行かない。考える余裕もないまま、ただ直感に任せて言葉を放った。それは文法のないただの単語の羅列となってしまった。彼はそれを聞いて訝しむと、ふと閃いたかのように元の表情に戻った。どうやら通じたらしい。おそらく相手もまた同様にこちらが何が言いたいのかは漠然と分かったようだ。後はその繰り返しである。
会話には自分が言ったことが分かってくれるかどうかという点において他力本願なところがある。話というのは自他ともに各々の言葉に込めた率直がある程度通じるという信用に依るところが大きい。コミュニケーション能力というのはこの信用が得られるかどうかではないかと、この文を書きながらふと思えてきた。
次は特別にO形先輩に御執筆いただけることになりました。素晴らしい文を期待しています。
さて、研究室に入ってから私は英語の素養というのが実は本当に必要だったという事を今更ながら痛感した。というのは、読まねばならない学術論文がほぼすべて英語であるのは勿論だが、それに加え日本語が喋られない外国人と話さねばならない状況も出てきたからだ。
やはりその必要性は実際問題として突きあたらなければ案外分からないものである。私の中学時代には、なんで日本人の自分が英語なんぞを勉強しなければならないんだろうと思い成績も低かったものだが、当時の自分にはまさか10年後に外国人と英語で話すことになるなど夢にも思わなかった。つい1年前でも思わなかった。理系の学生であればある程度の覚悟はしておくに越したことはないだろう。
自分の体感では単にコミュニケーションを取るだけなら、多少の文法の間違いは許されるし発音は日本人の口の動きでもそれっぽく聞こえればいいようだ。ここが日本だからかもしれないが。今までやってきた英語の勉強というのはそれほど役に立ってはくれなかった。というのは、自分の英語のインスピレーションは英文という視覚的に捉えられる形でしか大して働いてくれないからである。今までそういう勉強しかしてこなかったから当然ではある。
その外人は何かを言った。その時の私に現前としてあるのは,無論文章ではない,彼の情念を込めた言葉の音と彼の表情だけだ。彼が一体何を言っているのか、それは分からない。だが現在の情況と彼の表情から漠然とではあるにせよ何が言いたいのかは分かった。何か反応しなければ。しかし込み上げた感情に適当な言葉は容易には出てきてはくれない。それに相手をそこまで待たせるわけには行かない。考える余裕もないまま、ただ直感に任せて言葉を放った。それは文法のないただの単語の羅列となってしまった。彼はそれを聞いて訝しむと、ふと閃いたかのように元の表情に戻った。どうやら通じたらしい。おそらく相手もまた同様にこちらが何が言いたいのかは漠然と分かったようだ。後はその繰り返しである。
会話には自分が言ったことが分かってくれるかどうかという点において他力本願なところがある。話というのは自他ともに各々の言葉に込めた率直がある程度通じるという信用に依るところが大きい。コミュニケーション能力というのはこの信用が得られるかどうかではないかと、この文を書きながらふと思えてきた。
次は特別にO形先輩に御執筆いただけることになりました。素晴らしい文を期待しています。
by chiba_univ_shogi
| 2012-06-09 18:56
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