2015年 03月 14日
読書小並感想文 |
飲みと遊びと旅行の準備で忙しいF田です。遅れて申し訳ありません。
さて、あまりにもネタのアイデアがないので、囲碁部の後輩K芝君に振ろうと思った話のストックの一つでも書こうかと。K芝君は理系ながら文学の造詣が深く、おそらく部内の文系の人達を凌ぐのではないかと思います。彼とは主に最近読んだ本の感想とか共に知っている作品の解釈でよく話し合いましたね。今回の作品は青い鳥(メーテルリンク, 堀口大學訳)の感想でも。戯曲で内容も短いので、修論執筆の合間に読み終わりました。有名なのでネタバレは気にせず書こうかと思います。
内容を大雑把に言えば、二人兄妹のチルチルとミチルが夢の中で幸福の青い鳥を探し回るが、結局それは自宅の鳥籠の中にいた、という話です。「万人の憧れる幸福は、遠いところに探しても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそ探すべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです。」と訳者のあとがきで述べられています。以上の内容はこの作品を読んだことがない人でも知っている人は多いのではないかと思います。
主人公は貧しい木こりの子供で、話はクリスマスイブに隣のお金持ちの家のパーティを小屋の窓から羨ましそうに眺めることから始まります。そこで唐突に小屋を訪ねてきた妖女に青い鳥はいないかと聞かれます。部屋の鳥籠の中に鳥はいるが、青くはない。「お前たちにはこれから私の欲しい青い鳥を、探しに行ってもらわなけりゃいけないよ。(中略)私の小さい娘がひどく患っていて、その娘のためなんだよ。」そこで夢の中へ旅に出ます。青い鳥を探しに行くのは、主人公自身のためではなかった。
青い鳥とは何かということに関して本文で言及されている箇所は非常に少ない。森のカシワの木の台詞によれば、「青い鳥、つまり万物の秘密と幸福の秘密を探り出して、今よりもなお一層、わしたちをこき使うつもりなんだろう。」森の住人が木こりに対する敵意を示す台詞ですが、青い鳥とは万物の秘密と幸福の秘密であるということが触れられています。実際には、万物と幸福の秘密は主人公が青い鳥を探す過程で出会った者達のことだろうと思われます。例えば、第四幕‐幸福の花園においては、幸福が登場人物として現れ、直に対面します。名前をすべて挙げたら切りがないのですが、「お金持である幸福」とか「虚栄に満ち足りた幸福」、「健康である幸福」、「露の中を素足で駆ける幸福」などがいます。このような抽象的な名前を持った登場人物と各旅先で出会います。青い鳥を見つけるために、彼らに鳥の居場所を尋ねなければならない。彼らは容姿や性格で以て暗喩されており、主人公達は彼らがどのような性質のものかを直に見聞するわけです。
目が覚めてみると、夢の中の旅の一年間は実は一晩しか経っていないことが分かります。だが一年間の旅の記憶ははっきりしている。一晩しか経っていない小屋の中も見え方も変わって見える。「新しくなったようだね。なにもかも光ってきれいに見えるね。去年はこんなんじゃなかったね。」そして作者は主人公をして「ああ、いい気持ちだ。うれしいなあ。」とわざわざ言わしめるのであります。主人公の幸福な様子が見られますが、これは旅の経験によって心境が変化したためでしょう。現実で鳥籠にいた鳥が青く見えるのは、この変化によるものと考えるのは穿った見方でしょうか。「出かける前よりずっと青くなっているよ。なんだ、これが僕たちさんざん探し回ってた青い鳥なんだ。僕たち随分遠くまで行ったけど、青い鳥はここにいたんだな。」
仮にそれが穿ち過ぎだとしても、最後の訳者あとがきで「万人の憧れる幸福は、遠いところに探しても無駄」というのは、もしかしたら言葉の綾かもしれませんが、主人公の旅が全部徒労に終わったかのような印象を受けました。このたった一行が、読後感を一変する、すべてを台無しにするあとがきの作品として記憶に残りました。
最後にですが、今までの物の見方に変化をもたらすような経験というのは、とても貴重なものですし、他人に語っても面白がって聞いてもらえるものです。現役生はいずれ卒業前に就職活動などで面接を行うでしょう。自分を語る上でこういう経験を持つことは大きな強みになると思います。私はこれを将棋部での活動から得ました。願わくば、現役生もまた将棋部から学ぶものがあって欲しいと思います。
次はN村永世部長です。乞うご期待!
さて、あまりにもネタのアイデアがないので、囲碁部の後輩K芝君に振ろうと思った話のストックの一つでも書こうかと。K芝君は理系ながら文学の造詣が深く、おそらく部内の文系の人達を凌ぐのではないかと思います。彼とは主に最近読んだ本の感想とか共に知っている作品の解釈でよく話し合いましたね。今回の作品は青い鳥(メーテルリンク, 堀口大學訳)の感想でも。戯曲で内容も短いので、修論執筆の合間に読み終わりました。有名なのでネタバレは気にせず書こうかと思います。
内容を大雑把に言えば、二人兄妹のチルチルとミチルが夢の中で幸福の青い鳥を探し回るが、結局それは自宅の鳥籠の中にいた、という話です。「万人の憧れる幸福は、遠いところに探しても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそ探すべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです。」と訳者のあとがきで述べられています。以上の内容はこの作品を読んだことがない人でも知っている人は多いのではないかと思います。
主人公は貧しい木こりの子供で、話はクリスマスイブに隣のお金持ちの家のパーティを小屋の窓から羨ましそうに眺めることから始まります。そこで唐突に小屋を訪ねてきた妖女に青い鳥はいないかと聞かれます。部屋の鳥籠の中に鳥はいるが、青くはない。「お前たちにはこれから私の欲しい青い鳥を、探しに行ってもらわなけりゃいけないよ。(中略)私の小さい娘がひどく患っていて、その娘のためなんだよ。」そこで夢の中へ旅に出ます。青い鳥を探しに行くのは、主人公自身のためではなかった。
青い鳥とは何かということに関して本文で言及されている箇所は非常に少ない。森のカシワの木の台詞によれば、「青い鳥、つまり万物の秘密と幸福の秘密を探り出して、今よりもなお一層、わしたちをこき使うつもりなんだろう。」森の住人が木こりに対する敵意を示す台詞ですが、青い鳥とは万物の秘密と幸福の秘密であるということが触れられています。実際には、万物と幸福の秘密は主人公が青い鳥を探す過程で出会った者達のことだろうと思われます。例えば、第四幕‐幸福の花園においては、幸福が登場人物として現れ、直に対面します。名前をすべて挙げたら切りがないのですが、「お金持である幸福」とか「虚栄に満ち足りた幸福」、「健康である幸福」、「露の中を素足で駆ける幸福」などがいます。このような抽象的な名前を持った登場人物と各旅先で出会います。青い鳥を見つけるために、彼らに鳥の居場所を尋ねなければならない。彼らは容姿や性格で以て暗喩されており、主人公達は彼らがどのような性質のものかを直に見聞するわけです。
目が覚めてみると、夢の中の旅の一年間は実は一晩しか経っていないことが分かります。だが一年間の旅の記憶ははっきりしている。一晩しか経っていない小屋の中も見え方も変わって見える。「新しくなったようだね。なにもかも光ってきれいに見えるね。去年はこんなんじゃなかったね。」そして作者は主人公をして「ああ、いい気持ちだ。うれしいなあ。」とわざわざ言わしめるのであります。主人公の幸福な様子が見られますが、これは旅の経験によって心境が変化したためでしょう。現実で鳥籠にいた鳥が青く見えるのは、この変化によるものと考えるのは穿った見方でしょうか。「出かける前よりずっと青くなっているよ。なんだ、これが僕たちさんざん探し回ってた青い鳥なんだ。僕たち随分遠くまで行ったけど、青い鳥はここにいたんだな。」
仮にそれが穿ち過ぎだとしても、最後の訳者あとがきで「万人の憧れる幸福は、遠いところに探しても無駄」というのは、もしかしたら言葉の綾かもしれませんが、主人公の旅が全部徒労に終わったかのような印象を受けました。このたった一行が、読後感を一変する、すべてを台無しにするあとがきの作品として記憶に残りました。
最後にですが、今までの物の見方に変化をもたらすような経験というのは、とても貴重なものですし、他人に語っても面白がって聞いてもらえるものです。現役生はいずれ卒業前に就職活動などで面接を行うでしょう。自分を語る上でこういう経験を持つことは大きな強みになると思います。私はこれを将棋部での活動から得ました。願わくば、現役生もまた将棋部から学ぶものがあって欲しいと思います。
次はN村永世部長です。乞うご期待!
by chiba_univ_shogi
| 2015-03-14 00:00
| 部員日記